「死にたい」の口癖は「死にたい」じゃ無かった話
死にたいが口癖になってからもう何年が経ったか。
何か嫌な事があったり自己嫌悪に陥ったりするとすぐに死にたいと口走ってしまう。
テストや嫌な授業直前だとかそういうわかりやすい場面で、軽い口調なら友人の前でも言うことはあるが、大抵の場合は誰に向けるでもなく1人で小さく呟くことがほとんどだ。
「死にたい」という言葉自体自分自身に向けるものであるから当然なのかもしれない。
さて、その死にたいの口癖なのだが、私のそれは死にたい訳ではないなとふと気がついた。
他人の文章とかブログでは、「死にたいの真意は生きたいなんです!」とかなんとか言ってるのを見かけるが、私が言いたいのはそう言うことではない。
勉強したくないの「やりたくない」とか、嫌な事柄から「逃避したい」とか、そういったネガティヴな物事に対する感情を表す時に「死にたい」を安易に使ってしまっていたのだ。
頭では「やりたくない」とか「逃避したい」と思ってるはずでも口に出してしまうと、口に出した「死にたい」が真意のように思えてくる。
言霊という言葉があるが、口に出して知らず知らずのうちに自分に暗示をかけているのと一緒なんじゃないかと感じたのだ。
最近ようやく気が付いたのだが、私は何かを説明するのが苦手で、中でも自分の感情を言語化するのが他人より不得意らしい。
衝動的な感情を行動にして表出することはあっても、冷静に分析して、的確に自分の気持ちを言葉にして誰かに伝えるということをおそろかにしていたから当然の結果だろう。
言葉が先か、感情が先か。そんな文章を国語の授業で読んだ覚えがある。
SNSで簡単な言葉を無責任に放っているうちに、意味を重視した言葉を忘れ、失っていってしまった気がする。
私が長らく本を読んでいないというところも大きいだろう。
そうやってなにかを、他人を、自分を、感情を表す言葉がどんどん見つからなくなっていって、最初は狭義の意味で使っていた「死にたい」がいつのまにか広義の意味での「死にたい」になっていた。
…という話。
昔はもっと気が病んでいて本当に死にたかったのが、最近はもう何事にも結構諦めがついてあんまりメンタルがリアリティのある死に向かってないというのもあると思う。
だから、これからは「やりたくない」は「やりたくない」、「逃げたい」は「逃げたい」と言うように気をつけなきゃなぁ