死ぬ義務と死ぬ権利の話
少し前に死ぬ義務と死ぬ権利の話を出したので、せっかくなのでちゃんと書いてみようと思う。
そもそも、私には死ぬ義務はあるが、死ぬ権利は無い。
なぜならば、"死んでもいいような人間"ではあるが、"死んでもしょうがない"人間では無いからだ。
"死んでもいいような人間" つまり "死に値する人間" とは、留年したりだとか失業したりだとかパワハラセクハラ野郎だとかそういう、人間として劣っているクズのことだ。
"死に値する人間"には死ぬ義務がある。これには本人の意思は全く関係しない。
ただ、周りから、社会から不必要とされている。それだけで死ぬ義務が生じる。
対して、死ぬ権利を持つ人間とは、真面目故に鬱病にかかった人だとか、いじめだとかパワハラの被害者だとか、身近な者を失った人だとか、つまり、真っ当な人間であるのに死にたくてたまらない人間のことだ。
もちろん、死ぬ"権利"なので、使うか使わないかは自由。一般的に、まともに生きている人々はこちらの死ぬ権利だけを有していると言えるだろう。
例えば自殺した場合。
死ぬ権利を持つ人間は、仕事場で人手が減ることになり迷惑をかけることになったとしても、「あの人、鬱病だったんだって。」「そっか…それなら仕方ないよね」と言われるような人。死んでも惜しまれるような人。
対して死ぬ義務を持つ人間は、同じ様な場面で「死んでからも迷惑かけやがってクソ死ね!…あ死んでるんだったか笑」と言われるような人。重荷が減った、とホッとされてしまうような人。
個人的に、障害者には両方当てはまると思う。
例えば、ADHDでも薬を飲んで色々ちゃんとメモしたりして真っ当に生きようという気持ちのある人は死ぬ権利のある人。
ADHDで更に反省を生かす事なくダラダラ生きているような奴(私とか)は死ぬ義務のある人。
もっと具体例を出すと、パラリンピック選手とか、障害者として積極的に活動して偏見を無くそうとしている人ら(よくバリバラとかに出てる人達)とかブログでこうやったら健常者に近づけると生活の工夫を広めてる人達は死ぬ権利の方。
無職ニートだったり平気で遅刻してくるやつだったり障害に甘えてるのは死ぬ義務の方。
遅刻一つでも権利の方は、めちゃめちゃに謝ってくるのに対して、義務の方はごめんごめんって言う感じかな。
世の中にあるADHD当事者ブログとかに障害者は生きてていいって書いてあるのは、全部、死ぬ権利を持つ人間に向けて言っているのだと私は思っている。
そもそも当事者ブログを書いている人が死ぬ権利(というか生きる権利)を持っているのだから、その人達は、障害者は死ぬ権利を持ってる様な人しかいないというある種の幻想を有している。
だから、落ち込まないで!あなたは頑張ってる!生きてていいのよ!とか言えるのである。
話は冒頭に戻る。
私は、死ぬ義務を持つが死ぬ権利を持たない。
死ぬべきなのに死んだらいけないのだ。
そう簡単に死に逃げさせてはくれない。
葬式費用も伊達じゃ無いのだ。(といっても、生きていてこの先も人に迷惑かけたり、国からもらう保険料だったり、親に生活費を出してもらうことだったり、地球から1人分の酸素をクズに与えなければならぬということを考えると安いのだが…)
私の思想は歪んでいるだろうか。
本当に私だけなのだろうか。
このような考え方は、誰も言語化しないだけで世の中に蔓延っているように思う。無意識下に。
そんなことないよって言う人は、ホームレスに向けてそんなことが言えるのだろうか。
彼らのことを無意識に"死ぬ義務のある人間"だと思っていないか?
ネットで池沼だとかアスペという言葉が罵声として一般的に使われていることも、"障害者は死ぬべき"と世間が考えているという一つの証拠だろう。
ただ、私もその世の中の思想を持つ1人なだけなのだ。