ただの日常

とりとめのないただの日常の吐露

死ぬ理由を探して生きている

何故人は生きるのか。

何度も繰り返されてきたこの問いの答えとして

定番の、悪く言ってしまえばありきたりなもので、

「生きる理由を探すために生きている」

というものがある。

"生きる理由"なぞ最期の最期の死の直前までわからないから(=生きる理由がわかる時には死んでいる。生きている時には生きる理由は見つからないので生きるしかなくなる、矛盾みたいなやつですね。)

生きる理由としては相応しいのだろう、と思う。

しかし私はこの解答に納得できないのはもちろん、真逆の生き方をしているようであると気がついた。

死ぬ理由を探して生きている。

それも、ほぼ無意識に。

メンヘラなんてもうやめたつもりだったけれど

根深い自己承認の低さには抗えていなかったようだ。

自分自身は特に何も考えず、当たり前のように生きたいと思って生きているつもりだった。

でも違った。

勉強をしたくないんじゃなくて、しないようにしていて、

将来を考えたくないんじゃなくて、考えないようにしているだけで

留年したくないんじゃなくて、留年するように仕向けてる

留年すれば死んでもいいから。

受験に失敗すれば死んでもいいから。

貧しくて何も出来なくなって他人に見放されれば死んでもいいから。

あえて自己を破滅に追い込んでいるのだと、思う。

この思想(歪んでいる自覚はある)にはおそらく私の中にある"死ぬ義務と死ぬ権利の話"が関係していると思う。

(それについてはいつかまた話すかも。)

もしかしたら、勉強が出来ないことの理由づけに、死ぬ理由を探して生きていると主張しているのかもしれない。

まぁ、どちらにせよ死ぬ理由を探して生きている現状は変わらない。

家庭環境とか学校環境とか何にも悪くないのに、

悪いどころか、一般的には非常に良いとされる環境なのに、

どうして

どうしてこんな風になっちゃったんだろうなぁ。